2013年1月26日土曜日

大人だ。(劇団だるま座『かもめ』)

やあ、みんな。まあちゃんだよ。

ぼくはいまとっても幸せなんだ。
幸福という衣をまとって、いまこれを書いているところ。
なんちゃって。

いや、でもほんとに幸福。
こんなにいい芝居を観ることができて。
その芝居ってのが、劇団だるま座の『かもめ』だよ。

ぼくの演技の教科書『俳優のためのハンドブック』には、こんなことが書いてある。
(この本は、ほんとにいい本だよね。必要なことだけが、簡潔に書かれている)

「私たちの社会のほとんど全ての領域で、真実と美徳は希少なものとなっています。だからこそ世界は劇場を必要としているのです。(中略)劇場はいま、人間の社会において、真実を知ることができる唯一の場所かもしれないのです、、、」

なんて大袈裟なんだろう。そんなことあるわけないじゃん。
最初に読んだとき、そう思ったものです。いまもそう思ってます。
でも、少なくとも、劇場が、『真実を知ることができる場所』のひとつではあるのは確かだと思われます。
劇場というよりも、劇場で上演される芝居で、ということですが。
その芝居のひとつが、今夜ぼくが目撃した劇団だるま座の『かもめ』かと。

休憩中、外で一服の人々。


え? なに? どういう真実?

そう問われるとね。困っちゃうんですが。うまく説明できないんですがね。
なんというか、劇団だるま座の『かもめには、『本当の時間』が流れていたのです。
登場人物である俳優のみなさんが、生き生きとその場に立っていたのです。
(もちろん、ぼくにそう見えただけですが)
するとなぜか観ているぼくは、その場面に眼が釘づけになり、観終わった後、幸福感に包まれることになるのです。

それは当たり前のことですよね。こうやってわざわざ言うことでもないかもしれない。でも、そういうことを改めて考え(感じ)させてくれる舞台だったということなのかと。

最初に登場人物が全員舞台に出ている演出がよかった。
トレープレフが、母親や小説家について説明する長い台詞。
こんなふうに言葉だけで説明されてもと、戯曲を読んでいて思ったものですが、
その説明されている当の本人が舞台上にいると、すごくわかりやすい。

トレープレフは自殺未遂をしたあと、包帯を頭に巻いて、舞台の後ろのほうにずっとたたずんでいたのが、印象的でした。
今日、昼間秋葉原に行ったんですが、ああいう感じの人たちがいっぱいいたなあと思って。

自殺したあと登場して、湖の風景画の入った額を遺影のように胸に持つ、という演出も面白いと思いました。


ドールンはかっこよかったです。
「ああ、大人だ」
ちょい悪親父の感じが参考になりました。ぼくもああいうふうになりたい。

アルカージナもトリゴーリンも素晴らしかったです。
いや、みなさん素晴らしかったのです。
ギャグで笑わせるんじゃなくて、演劇的に笑わせる技術が。
いや、そうじゃなくて。
技術ということじゃなくて、人間的な魅力ということなのかと。


あえて不満をいうと。

ニーナは、第四幕では、もっと別人になっていてくれたらなあと。
あれでも別人だったかもしれないけど。でも、もっと。
違う人が演じてもいいかもしれないぐらい。無茶ですかね。
ニーナは、第一幕で演じた役(劇中劇?)を第四幕でもう一度やりますが、第一幕と同じようにやってるように見えました。
二度目にやるときは、同じようでいながら、「でも違う、もう過去には戻れないのよ」的な雰囲気が出ればよかったのになあと。
無茶振りですかね? ごめんなさい。

それからトレープレフが自殺する気持ちがやっぱりわからなかった。
とはいえ、現実に自殺する人の気持ちも、ぼくには(いまのところ)わからない。
だから、どんなにうまく演出されても、ぼくにはトレープレフの気持ちは結局わからないのかもしれません。

それからそれから。もうひとつ。
かもめ(大判の白ノート)が出てきたり、それが話題になる度に、右の蛍光灯がちかちかしました。
どういう意図なんだろう。
かもめ=ちかちか?
意味を感じ取ることができませんでした。
『かめも』が出てこないときも、一度ちかちかしていたけど、それと関係あるのだろうか。


いつもはこんなことしませんが、一緒に撮ってもらっちゃいました。
でもピントが背景に合っちゃってる。とほほ。
緊張してて、表情もよくないし。明日、また撮ってもらおうかな。剣持さんは、いい笑顔!
負けた!


すいません。
興奮状態のまま長く書いてしまいました。ごめんなさい。
ではでは~


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