2012年10月20日土曜日

牛が立って私を見ている

短篇小説、書いたよ。
感想など、聞かせていただければと。

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 牛が立って私を見ている

 牛と散歩していると、奴が突然聞いてきたのである。
「おれのどこが食べたい?」
 私は立ち止まった。そんな質問をされるとは思ってもみなかった。牛がしゃべるとも思わなかった。
 牛はあかい眼で私を見つめている。道のまんなかで、私はしばらく牛と顔を見合わすことになった。牛の奴は、スイカみたいに大きな赤いべろを長々と垂らし、振り子みたいに揺らした。唾液が垂れて地面に落ちた。
 しかし牛がしゃべるわけがない。空耳に決まってる。私はまた手綱を引いて歩き出した。牛は抵抗することもなく大人しくついてきた。ふう、やっぱり空耳だった。安心した途端、牛の奴がまた聞いてきたのである。
「おれのどこが食べたいか言ってみな」
 低いだみ声が、私の耳にこだました。
 私はまたしても立ち止まった。そして振り返って、奴を見た。
 牛の奴、今度は右の肩あたりをゆさゆさ揺すって見せるのである。見方によっては、肩ロースが食いたいのかと、問い掛けているように見えなくもない。ということは、さきほどべろをぶらんぶらん揺らしていたのは、タンが好みかねと言っていたとも受け取れる。
 そこで私は馬鹿らしいと思いながらも、「どこならごちそうしてくれる?」と聞いてみたのである。
 牛の奴はにやりと笑いやがった。そして今度は尻を左右に振った。女が男を誘うときみたいに。正直に言おう。私はそのときちょっぴり欲情した。牛が尻を振るのを見て! なんということだ! 尻の肉はランプという。次に牛は尻尾を振って見せた。それはテールだ。
 次には腿を私に押し付けてきた。
「ほんとうはどこが食べたいのかね」と牛が聞いてくる。
 牛の奴は慣れない散歩ですこし興奮しているみたいだ。無理もない。ここは牛の奴がはじめて通る道なのだ。
 落ち着け、落ち着け。
 私は牛の後ろにまわりこみ、腰のあたりをそっとさすってやった。すると先ほどまでわさわさ身体を動かしていた牛が、急に大人しく静かになった。首を垂れ、舌をひっこめた。
 手綱を引いてまた歩き出す。
 しばらく行くと、トラックが待っていた。牛は荷台へ掛けた板を素直に上っていった。運転手は組合の制帽をかぶり、茶色のサングラスを掛けていた。耳にイヤホンをつけている。音楽を聴いているようだ。身体を左右に揺すっている。私がよろしくお願いしますと言うとが、運転手は顔を上げ、「ここにサインしてください」と事務的に言ったきりだった。
 私は道端に立ち、トラックを見送った。牛の姿は荷台の幌に隠れて見えなかった。
 その夜遅く、家の戸を叩く者があった。出ると、見知らぬ男が立っていた。組合の制帽を被っている。何が嬉しいのか。やたらと愛想よく笑っている。
「ご注文のサーロインロースです。いい肉ですよ。ここに置いときますね」
 男はそう言って立ち去った。
 私は肉を冷蔵庫に仕舞った。
「明日の夕飯はステーキね」
 妻は嬉しそうであった。

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