2012年10月31日水曜日

小説『ブランコ』


 ブランコ  日曜日。暑い夏が終わり、ようやく涼しくなってきた頃。  昼過ぎまで布団のなかで寝ていた。そのせいか頭が痺れている。  前夜は遅くまで飲んだ。缶ビールを一パック空けてしまった。飲みすぎである。眼を覚ましたときにはさすがに反省した。  どうして昨日はあんなに飲んだのだ? そんなに飲む必要はなかったではないか。何がおれを飲酒に駆り立てるのだ? とにかく飲みすぎだ。今日からは飲まないことにしよう。そう心に誓った。  だがそんなことはいまさら始まったことではない。このところ毎日なのだ。朝起きたときに、前夜の飲酒の反省をする。そしてもう当分は飲まないと決心する。しかし夜になるとなぜか夢遊病者のようにさまよい歩き、気がつくと缶ビールの蓋を開けている。そして翌朝にはまた反省する。それがおれの日課になっていた。  毎度毎度の反省である。でもそんなことは誰だってそうだろう? 飲んだ翌日はもう飲むまいと誰だって考えるだろう? しかしその決心は十数時間しか続かない。夜にはまた懲りずに飲んでいる。 「今日は休みだから、働きに出なくていいんだな」  安心していいはずなのに、逆に自分の言葉にぎくりとなった。  布団からのそのそと起き出して、窓から外を見る。いや、嘘はよくない。正しくはこうだ。窓から見える家と家の十数センチの隙間から、青空を覗き見した。おれの部屋には日差しがほとんど射さないということだ。いつもじめじめしていて、畳からはきのこが生えたりしている。気持ち悪くて近づく気にもなれない。誰だってこんな部屋には居たくない。おれだってもちろん居たくはない。だから急いで服を着替えると外に飛び出した。  外の空気はひんやりしていてさわやかだった。深呼吸しながら道のまんなかを歩いていると、遠くで子供たちの歓声が聞こえた。  今日は幼稚園の運動会でもあるのかな?  近くの公園まで散歩した。並木に囲まれた公園で、中央には盛り土した丘があり、子供たちが走って登ったり、滑るようにくだったり、笑いながら転がったりしている。うるさいので、公園を斜めに突っ切って早く向こう側から出ようと思った。遊具の設備がある方へ向かった。キャッチボールしている子供たちのあいだを抜けて行く。  球形のジャングルジムがあり、砂場があり、シーソーがあった。子供たちは遊具を使って自由に遊び、母親たちがそれを嬉しそうに眺めていた。  青と赤に塗り分けたブランコが、おれの眼にとまった。他の遊具には子供らが群がっているのに、ブランコの周囲には誰もいない。 「へえ、こいつはいいね」  ブランコはふたつあった。ひとつは赤く塗られており、もうひとつは青く塗られている。  赤く塗られているほうのブランコに腰を落とし、手で鎖を握った。鎖は冷たくて、火照った手に気持ちがいい。  なんとなく足をそっと動かした。するとブランコが静かに前後に揺れだした。そういえば子供のときはブランコが大好きで、一日中でも乗っていたいと思ったものだ。お母さん。あなたはやさしく背中を押してくれましたね。でもそのうちにあんまりブランコにばかり長時間乗っているものだから、徐々に不機嫌にもなっていきましたね。 「もう帰ろう」 「いや、もうちょっと」 「ねえ、もう帰ろうよ」 「まだ漕ぎ足りない! もう少しいる」 「いい加減にしなさい。もう帰るよ」 「いや。まだ居る」 「勝手にしなさい。お母さんはもう帰るよ」 「いやだ、いやだ。お母さん、背中押して。だってまだ乗っていたいんだもの」  そんな会話が交わされましたね。  おれはブランコの上に両足で立ち上がり、勢いよく漕ぎ始めた。腰を使って、ブランコを大きく揺すった。なぜかわからないが、死に物狂いで漕ぎ始めた。すぐに汗が出て、こめかみを滝のように流れて行く。ブランコは大変な勢いで空を飛んでいる。手を離したら、おれ自身が百メートルも飛んで行きそうだ。  ブランコを漕ぎながら、決心した。そうだ。おれは今日一日ブランコに乗っていたい。今日、これからずっとだ。一分たりとも休んではならない。ずっと漕ぎ続けるのだ。明日の朝、夜が明けて再び明るくなるまで漕いでいたい。それが子供のときの願いだったのだ。それをいま実現する! ホースで水を撒くみたいに汗を撒き散らし、瞳をダイヤモンドのように輝かせながら、おれはブランコを漕いだ。  するといままでブランコにはまったく興味を示さず、振り向きもしなかった餓鬼どもがブランコの周囲に群がってきた。 「ぼくもブランコに乗りたい!」 「私も乗りたいよお」 「ぼくも、ぼくも」  餓鬼どもが、若い母親の袖を引っ張りながら、これみよがしに叫んでいる。 「順番だからね」 「順番だからね。すぐにどいてくれるよ」 「もう少しの辛抱だよ」  母親たちもこれよみがしに言い聞かせる。 「ふん」  おれは腹のなかで笑ったものだ。確かにもう少しの辛抱かもしれないな。明け方までの辛抱だ。時間にして十数時間。たいした時間じゃない。  腰が少しずつ疲れてきた。踏ん張る脚が震えてくる。鎖を握る手の握力が無くなって行くのがわかる。それでも漕ぎ続けた。一所懸命に漕ぎ続けた。もう絶対に、何がなんでも漕ぎ続けるのだ。おれは一日ブランコを漕ぎ続ける!  ブランコは実際のところ、もうひとつある。だから子供たちはそのブランコで順番に遊べばよい。ところが餓鬼どもはそのブランコでは遊ばず、おれの漕ぐブランコの横で列を作っている。  どうしてそっちのブランコで遊ばない?  すぐに謎は解けた。よく見ると青いブランコは壊れているのである。鎖が片方はずれていて、板の端がさびしげに地面と接していた。気づかなかった。なるほどね。そういう理由か。  それにしたって可笑しいではないか。それまではブランコなんかには眼もくれず、他の遊戯器具で遊んでいたのに、おれがブランコを漕ぎ出した途端、集まってきて、ブランコに乗りたい、ブランコに乗りたいと騒ぎ出す。どういうことだ?  だがそんなことはどうでもいい。おれは今日一日ブランコを漕ぎ続ける。それだけだ。  堪りかねた母親が、おれに向かって牙をむいた。 「いつまで乗ってるつもりなんですか?」 「子供が並んで待ってるんですよ」 「あなた一人のブランコじゃないんですよ」  そいつらを横目で睨みつけてやった。連中の顔は、まるで動物園のかばであった。  その後も、おれへの攻撃は続いた。 「早くどけろ。子供が遊ぶものだぞ」  父親らしき男がやってきて怒鳴りつける。  ひるみそうになったが、とどまった。絶対にとまってやるもんか。一日このブランコを漕ぎ続けると決めたのだ。  見込みはあるの?  体力的には厳しかった。ブランコもこれでなかなか体力が必要なようだ。しかし負けない。怒鳴り声に負けじとばかり、鬼の形相で漕ぎ続けてやった。  やがて周囲が薄暗くなってきた。 「やっとか」  正直そう思った。くたくただ。だが待っている連中もそれは同じだったようだ。おれを取り巻いていた餓鬼どもや母親、それから父親連中の数も徐々に少なくなっていった。そして日がすっかり暮れた頃には、おれの周囲には一人もいなくなった。最後まで先頭で待っていた子供は、泣きじゃくって母親に抱きついていた。 「ブランコに乗りたい。ブランコに乗りたい。ブランコに乗りたいよ」  経文のように唱えていた。 「ひどい人ね!」  母親は悔しそうに叫んで帰っていった。悔しがれ。おれの勝ちだ。母子の後姿は、暗がりのなかに消えていった。  一人きりになると、鎖がこすれる音や軋む音が、より響くようになった。雲はない。暗くなると、空には星が瞬くようになった。星空と暗い地面を交互に見る。今日は何度、空を見たことだろう。  ひどく疲れていた。鎖を握る手の感覚はなくなり、脚はもう動かない。腰が痛い。今日一日がこんなことになろうとは。明日は動けなくなるかもしれない。歩けないだろう。トイレにも行けないかもしれない。もう止めたい。止めちゃうか。もう止めよう。いやいやいや。止めてなるものか。いまさら止めてなるものか。同じ言葉が何度も繰り返される。  真夜中、公園は静かだった。スケートボードで遊ぶも者もいない。ときどき人が通り過ぎた。立ち止まって、眺めて行く者もあった。しかしそれほど長くは眺めない。係わり合いになるのを恐れているのだ。カップルが楽しそうに喋りながら近づいてきて、おれに気づくと、黙ってうつむいて通り過ぎた。犬がときどき吼えて、おれをびっくりさせた。だがそれもすぐに闇のなかに消えていった。  おれの意思は固いはずだった。明け方まで漕ぎ続けるはずだった。しかし身体のほうが限界だった。おれの身体が動かなくなった。同時にブランコの動きがゆっくりになり、やがて止まった。もう一度漕ぎ出す力は残っていなかった。しばらくはそのままじっとブランコの上に立っていた。あんなに暑かったのに、いまは妙に寒い。はやく家に帰りたい。だが身体が動かないのだ。ようやく足を動かすことができて、地面を踏んだ。地面の感触をこれほど懐かしく感じるとは。地面はどっしりとして、踏んでもびくともしなかった。指を一本ずつ伸ばして、手を鎖から離した。てのひらには鎖の彫刻が出来ていた。  溜息。それからゆっくりと歩き始めた。身体が歩き方を忘れてしまったようだった。右足を出して、次は左足を出して、右腕を前へ。左腕を前へ。頭のなかで考えながら歩かなくてはならなかった。油の切れた自転車みたいだった。関節がきりきり鳴った。  何時だろう。公園の時計を見る。が、暗くて何時だかわからない。明け方ではないことは確かだ。まだ真っ暗だから。仕方がないので、携帯をポケットから取り出した。まだ11時23分であった。 「夜明けまで漕ぎ続けるのだ」  固い決心のつもりだったが。  また無駄な遊びをしてしまった。家に帰ると、すぐに布団にもぐりこんだ。耳を枕に押しつけ、背中をまるめ、眼を閉じた。眼からは涙が流れ出て、こめかみを伝った。

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